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越前国とは?
越前国をご存知でしょうか?知らない人のために越前国の成り立ちをご紹介!!
越前国について
この記事を読むと知人に越前国を説明できるようになります!!
目次
越前国ってどこにあるの?

越前国が生まれたのは奈良時代、当初の越前国は現在の石川県と福井県北部の全域を含む広大な面積を有していました。その後現在の石川県の地域に、能登国と加賀国が分立したことで現在の福井県北部の領域に収まりました。その立地は非常に恵まれており、北には日本海、東と南の周囲は雄大な山々に囲まれ資源が豊富なだけでなく、広大な福井平野を有しており農業にも非常に適している土地でした。また、時の都であった京都や奈良とも近すぎず・遠すぎずの場所に位置しており、その規模から9世紀には「北陸道唯一の大国」と称されるほどでした。
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越前国の歴史や出来事
越前国の沿革
越前国の歴史は非常に古く、今から約1万5千年前には既に人が住んでいたと言われています。
4世紀には現在の福井県嶺北地方で古墳が作られ始め、中でも六呂瀬山古墳群などは北陸地方最大規模と言われており、6世紀頃には、のちの26代継体天皇が即位の瞬間までこの地を治めていたと伝えられているなど、当時から非常に栄えていた地域であったことが窺えます。
その後奈良時代に「越前国」が成立し、国の中心となる国府は中心地であった現在の越前市付近に置かれました。地理的条件に恵まれた越前国は、農業や商業が広く発展しただけでなく、当時中国の北東部に栄えていた大国「渤海」との交易や、都と北陸とをつなぐ交易路の役割を担うなど、政治・経済・文化の中心地として発展を遂げていきました。
平安時代には、「源氏物語」の著者として有名な紫式部が、越前国司として赴任した父とともに、その幼少期を過ごしたと言われています。
紫式部はその生涯のほとんどを京の都で過ごしたのですが、唯一京を離れたのが越前国での少女時代であり、源氏物語の一節にも、当時の体験が生かされていると思わされるような場面がいくつか登場しています。
彼女の豊かな表現力は、越前国の情景によってもたらされたものなのでは?と考えるのも、ロマンがありますね。室町時代初期、南北朝時代の騒乱の影響を受け、越前国でも内乱の時代が続きました。内乱が平定されると、室町幕府将軍足利氏の有力な一門であった斯波氏が、越前国守護として赴任しました。
ですが実質的な統治は守護代であった甲斐氏が行っており、次第に権力を強めていく甲斐氏と斯波氏の対立は15世紀になる頃に激化、再び内乱の時代が訪れました。
京都で応仁の乱が起こり日本全体が乱れていく中、朝倉氏が台頭し越前国を平定、北陸道の要衝としての地位を確立しながら戦国の世に突入していきます。
戦国時代、越前国は北陸道や朝倉街道が走る交通の要衝であったことから、織田信長をはじめとした名だたる武将たちがこの地を奪い合い、朝倉氏は織田氏の軍勢の前に滅亡。
以降は柴田勝家・前田利家・佐々成政などの名将が越前国を治めていました。
関ヶ原の戦いの後、戦功第一の恩賞として徳川家康の次男である結城秀康が越前国を与えられ、以降、越前松平氏が長らく越前国を統治していきます。
その石高は最大75万石と非常に大きく、この時代に現代にも続く越前工芸品の技術が確立されていったとされています。福井県となった今でこそ、全国知名度も低く影の薄い存在になってしまっていますが、歴史のターニングポイントには必ずと言っていいほど越前国の名が登場しており、江戸の時代にはあの徳川家康の直系の家系が治めていたほどの大国だったということ、あなたはご存知でしたか?
4世紀には現在の福井県嶺北地方で古墳が作られ始め、中でも六呂瀬山古墳群などは北陸地方最大規模と言われており、6世紀頃には、のちの26代継体天皇が即位の瞬間までこの地を治めていたと伝えられているなど、当時から非常に栄えていた地域であったことが窺えます。
その後奈良時代に「越前国」が成立し、国の中心となる国府は中心地であった現在の越前市付近に置かれました。地理的条件に恵まれた越前国は、農業や商業が広く発展しただけでなく、当時中国の北東部に栄えていた大国「渤海」との交易や、都と北陸とをつなぐ交易路の役割を担うなど、政治・経済・文化の中心地として発展を遂げていきました。
平安時代には、「源氏物語」の著者として有名な紫式部が、越前国司として赴任した父とともに、その幼少期を過ごしたと言われています。
紫式部はその生涯のほとんどを京の都で過ごしたのですが、唯一京を離れたのが越前国での少女時代であり、源氏物語の一節にも、当時の体験が生かされていると思わされるような場面がいくつか登場しています。
彼女の豊かな表現力は、越前国の情景によってもたらされたものなのでは?と考えるのも、ロマンがありますね。室町時代初期、南北朝時代の騒乱の影響を受け、越前国でも内乱の時代が続きました。内乱が平定されると、室町幕府将軍足利氏の有力な一門であった斯波氏が、越前国守護として赴任しました。
ですが実質的な統治は守護代であった甲斐氏が行っており、次第に権力を強めていく甲斐氏と斯波氏の対立は15世紀になる頃に激化、再び内乱の時代が訪れました。
京都で応仁の乱が起こり日本全体が乱れていく中、朝倉氏が台頭し越前国を平定、北陸道の要衝としての地位を確立しながら戦国の世に突入していきます。
戦国時代、越前国は北陸道や朝倉街道が走る交通の要衝であったことから、織田信長をはじめとした名だたる武将たちがこの地を奪い合い、朝倉氏は織田氏の軍勢の前に滅亡。
以降は柴田勝家・前田利家・佐々成政などの名将が越前国を治めていました。
関ヶ原の戦いの後、戦功第一の恩賞として徳川家康の次男である結城秀康が越前国を与えられ、以降、越前松平氏が長らく越前国を統治していきます。
その石高は最大75万石と非常に大きく、この時代に現代にも続く越前工芸品の技術が確立されていったとされています。福井県となった今でこそ、全国知名度も低く影の薄い存在になってしまっていますが、歴史のターニングポイントには必ずと言っていいほど越前国の名が登場しており、江戸の時代にはあの徳川家康の直系の家系が治めていたほどの大国だったということ、あなたはご存知でしたか?
越前朝倉氏
越前国を語る上では欠かせない、朝倉氏による統治の時代についてもう少し詳しくみていきましょう。

戦国大名としての越前朝倉氏は、先でも述べた応仁の乱でその名をあげた7代目当主、朝倉孝景から始まります。
元々は越前国守護代(No.2のような存在)であった朝倉氏ですが、孝景は戦にめっぽう強く野心家であった為、応仁の乱の動乱に乗じて度重なる戦果を挙げ越前国を平定、武力で越前国守護へと成り上がりました。
戦国の世といえば「下剋上」という言葉を聞いたことがあるかもしれませんが、実は、当時の日本で下剋上を成功させ、一国の大名にまで成り上がった初めての人物が、朝倉孝景だったのです。
そんな「戦国のスーパールーキー」朝倉氏が本拠を構えたのが「一乗谷」でした。
周囲のほとんどを山に囲まれ、北には足羽川が流れる、まさに天然の要塞とも呼べる山城の一乗谷城は、当時敷かれていた主要な街道へのアクセスも良く広大な土地を有していたため、日本有数の城下町を形成していきました。
また、応仁の乱から落ち延びた京の文化人達もこの地に多く訪れていた為、一乗谷を中心に、越前国では華やかな京文化が花開いていき、「北ノ京」とも呼ばれるに至りました。
元々は越前国守護代(No.2のような存在)であった朝倉氏ですが、孝景は戦にめっぽう強く野心家であった為、応仁の乱の動乱に乗じて度重なる戦果を挙げ越前国を平定、武力で越前国守護へと成り上がりました。
戦国の世といえば「下剋上」という言葉を聞いたことがあるかもしれませんが、実は、当時の日本で下剋上を成功させ、一国の大名にまで成り上がった初めての人物が、朝倉孝景だったのです。
そんな「戦国のスーパールーキー」朝倉氏が本拠を構えたのが「一乗谷」でした。
周囲のほとんどを山に囲まれ、北には足羽川が流れる、まさに天然の要塞とも呼べる山城の一乗谷城は、当時敷かれていた主要な街道へのアクセスも良く広大な土地を有していたため、日本有数の城下町を形成していきました。
また、応仁の乱から落ち延びた京の文化人達もこの地に多く訪れていた為、一乗谷を中心に、越前国では華やかな京文化が花開いていき、「北ノ京」とも呼ばれるに至りました。

第11代朝倉義景の時代には、京を追放され、後に室町幕府最後の将軍となる足利義昭が、義景を頼って一乗谷に落ち延びてきました。義昭は有力な大名であった義景の力を背景に、京への再上洛を狙っていたようですが、情に厚く平和的な性格だったといわれる義景はこれを拒否します。最終的に天下を狙う信長が義昭を奉じて京に上洛した後、将軍の権威を背景に義景に京へ参上するよう命じますが、義景はこれも断固として拒否し、当時最も勢いのあった信長と真っ向から敵対しました。義景率いる朝倉家はその後、幾度となく信長との戦を重ねますが、近江の浅井家との共闘や、武田信玄らと組み信長包囲網を形成するなど、信長と徹底的に対立し、とことん苦しめ続けます。相次ぐ激戦の末、信長と停戦の講和を結ぶ際には、信長から義景に「天下は朝倉殿が持ち給え。我は二度と望み無し」と書かれた書状が贈られたといわれています。後に天下統一を目前まで成し遂げる織田信長から、「天下を譲る」ともとれるような言葉を贈られた義景、このエピソードから越前朝倉家がどれほど信長にとって脅威であったかが窺えます。 その後、浅井家の滅亡や武田信玄の死など、局面は信長有利に進んだことで、朝倉氏はついには信長によって滅ぼされてしまいますが、日本で初めて下剋上を成し遂げ、戦国時代の先駆けとなった孝景、落ち目にあった将軍義昭を救い、戦国のカリスマ織田信長と最後まで戦い抜いた義景、覚悟と気概に溢れた彼らの生き様は、「越前国魂」として受け継がれ、その後の越前国の発展と豊かさを支えていきました。
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越前国のいいところ
全国有数の米どころで育まれた豊かな食文化

日本国語大辞典に次のような言葉があります。「一播二越(いちばんにえち)」これは江戸時代に使われていたお国自慢の言葉です。
この言葉には、当時の日本で最も肥沃な土地は播磨国(兵庫県)で、2番目は越前国であるという意味が込められています。
播磨国といえば、あの豊臣秀吉が手がけた世界遺産「姫路城」で有名なまさに一大都市、その播磨国に次ぐ豊かな国として越前の名前が挙がっていたことから、当時の越前国が日本全国においても有数の大国であったことが図り知れます。その豊かさを支えていたのが稲作です。
周囲を山々に囲まれ、平野には雄大な九頭竜川が流れており、山々からの恵みを各地に届けてくれていました。そんな豊かな水と恵まれた土壌によって、福井県では古くから稲作が盛んに行われており、全国有数の米どころとしてその地位を築いていたようです。
米作りの伝統は今の時代にも確かに受け継がれており、日本一の米ブランドとして有名な「コシヒカリ」も現在の品種が生まれたのは福井県であるとされています。
この言葉には、当時の日本で最も肥沃な土地は播磨国(兵庫県)で、2番目は越前国であるという意味が込められています。
播磨国といえば、あの豊臣秀吉が手がけた世界遺産「姫路城」で有名なまさに一大都市、その播磨国に次ぐ豊かな国として越前の名前が挙がっていたことから、当時の越前国が日本全国においても有数の大国であったことが図り知れます。その豊かさを支えていたのが稲作です。
周囲を山々に囲まれ、平野には雄大な九頭竜川が流れており、山々からの恵みを各地に届けてくれていました。そんな豊かな水と恵まれた土壌によって、福井県では古くから稲作が盛んに行われており、全国有数の米どころとしてその地位を築いていたようです。
米作りの伝統は今の時代にも確かに受け継がれており、日本一の米ブランドとして有名な「コシヒカリ」も現在の品種が生まれたのは福井県であるとされています。

越前国の繁栄を支えていたのは稲作だけではありません。水質に恵まれた日本海から獲れる豊富な海産資源、周囲の山々では山菜採りだけでなく狩猟も盛んに行われていました。豊かな食文化は今の時代でも受け継がれており、「越前ガニ」は日本全国のズワイガニの王者として君臨し、清らかな水で作られる「越前おろしそば」はその高い風味と喉ごしで、全国の食通を唸らせています。

他にも、薄切りの豚肉をキメ細かな衣で揚げ、ソースをたっぷり染み込ませた「ソースカツ丼」や、オムライスの上にトンカツと乗せ、特製ソースをかけた贅沢すぎる「ボルガライス」など、独創的なご当地グルメもたくさんあり、まさに「食の都」と言えるでしょう。

かの有名なベートーベンの言葉に「心の純粋な人だけが、美味しいスープを作ることができる」というものがあります。「食」というものは、その作り手の心持ちによって味わいを増し、豊かになるものだということが分かりますね。これほどまでに豊かな越前国の食文化は、食材資源に恵まれていたことだけでなく、この地に住む人々の人間性によって形作られてきたものだったのかもしれません。
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現代にも受け継がれるもの作りの文化
越前国には今の時代も受け継がれる伝統文化が多く生まれていました。

その一つが「越前和紙」。手漉きの和紙では今でも日本一のシェアを誇る越前和紙ですが、その歴史は古く、日本に製紙法が伝わったとされる6〜7世紀ごろには、既に優れた紙漉き技法が確立していたと言われています。越前和紙は室町時代から江戸時代にかけて全国に広く普及し、中でも一級品とされた「越前奉書」は、江戸幕府の御用紙として使用されるほど格式高いものだったのです。また日本で最初の藩札(各藩の領内だけで流通していた紙幣)は越前和紙で作られており、明治維新後初めてのお札も越前和紙で作られていました。これだけでも驚きですが、現在では当たり前の技術となっている「透かし技法」を開発したのも越前和紙の職人達で、越前和紙は日本における紙の歴史を語る上では欠かせない、越前国を代表する伝統文化です。

次にご紹介するのは「越前打刃物」。1337年、京都の刀匠が刀剣制作に適した地を求め越前国に定住し、そのかたわらで近隣の住民のために鎌を作ったことが歴史の始まりと言われています。日本古来の火づくり製造技術と手作業による仕上げという製法を守りながら、農具から調理用の包丁まで、多様な打刃物が現在までつくり続けられています。そんな越前打刃物は、その歴史と技術が高く評価され、昭和54年に刃物の産地としては全国で初めてとなる、伝統的工芸品の指定を受けています。伝統を真摯に守りながらも、時代の変化に対応し、現代にまでこの技術が受け継がれているのも、ひとえに越前国の魂を持った職人達の、類まれな気概によるものなのでしょう。
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